エンジニアリング、マネジメント、日常、生活

時がうつろい環境が変われば好みや感じかたに変化が出るという事実を織り込み,それらも含んだ多くの要因の交互作用の中で,あらゆる営みは行われている(前田, 2014, p. 375)。

「それで、あなたは、何をする人なんですか?」

「それで、あなたは、何をする人なんですか?」

これは今年2月に発売されてエンジニア界隈で話題になった本、『カイゼン・ジャーニー』の一節だ。

カイゼン・ジャーニーの主人公はこの言葉をきっかけにして、己の成長の旅をスタートする。

この言葉は、日本中のあらゆる人の心に鋭く突き刺さり、ある人には希望を、ある人には影を落としたことだろう。

あなたはどちらでしたか?僕は後者でした。

人は、何かをする存在でなくてはならないと、突き付けられたのだ。

人は、何かを成し遂げなくてはならないと、突き付けられたのだ。

 

「それで、あなたは、何をする人なんですか?」

 

僕はこれまで、何をしたのだろう。

僕はこれまで、何をしてきたのだろう。

なんとなくやり過ごした学生時代。遊んで過ごした大学時代。搾取され続けたSIer時代。転職し、外の世界を知った弊社時代。

たかだか30年程度の人生を振り返っても、やってきたことを言葉にする事が出来ない。言語化が出来ないことを、何かを成し遂げたと言い切るわけにはいかない。

言語化ができないことは、再現性がないことを意味している。同じ事をもう一度やれるから、ナレッジメントには価値はある。

そもそも、言語化しようとすることがおこがましいのだ。高度に発達した現代の文明は、ただ何となく生きていれば大人になれる社会を実現してしまった。僕がその証明だ。何一つとして成し遂げてなどいないのだ。

ふと、気付いてしまった。

僕がいま、己の成長を求めて足掻き続けることの出来る環境、すなわち、『ここ』にいるのは、ただの生存者バイアスに過ぎず、たまたま、そう、たまたま、成長するキッカケがついてきただけなのではないか

 

「それで、あなたは、何をする人なんですか?」

 

人は何かをしなくてはならないのだろうか。

人は何かを成し遂げなくてはならないのだろうか。

僕はきっと、何者かになりたかった。そうして何もやってこないまま、何者にもなれなかった。

そのような人間に価値はあるのだろうか。本当に価値は無いのだろうか。よしんば価値が無いとして、ならば価値が無ければ人生に意味は無いのだろうか。意味は必要なのだろうか。

それでも僕は生きていて、今日も僕はお腹が減る。

今日も食べていかなくてはならない。今日も生きていかなくてはならない。意味が無いとしても、価値が無いとしても、生がここにある限りは。お腹が減る限りは。

 

「それで、あなたは、何をする人なんですか?」

 

僕は誇張無しに、転職をきっかけにして、努力することを覚えた

学ぶことを覚え、学んだことを仕事に適用することで、人と人、人とプログラム、プログラムとプログラムの歯車を合わせることを覚えた。

明らかに転職前に比べて、いい感じの毎日だ。

きっと、明日は今日よりもいい自分になるだろう。

きっと、明日は今日よりも出来ることが増えるのだろう。

きっと

たぶん

おそらく

 

ならば

 

ならば、明日は何者かになれるだろうか。

ならば、明日は何かを成し遂げられるだろうか。

ならば、明日は

明日は

明日は

明日は

明日は

明日は、

 

「それで、あなたは、何をする人なんですか?」

 

今日も、僕はお腹が減る。