エンジニアリング、マネジメント、日常、生活

時がうつろい環境が変われば好みや感じかたに変化が出るという事実を織り込み,それらも含んだ多くの要因の交互作用の中で,あらゆる営みは行われている(前田, 2014, p. 375)。

アウトプットと、アウトプットへの責任について

人を言葉で傷付けた話

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年末に行われた飲み会にて、自分がただ何の気無しに発した一言によって、自分がこれまで最もお世話になった人を心の底からいたく傷付け、怒らせたという出来事があった。
当人に謝罪こそしたものの、これをきっかけとして、残念なことに友人関係の解消という結果になった。
この出来事が起きてから約2ヶ月、僕はアウトプットとそれに伴う責任というものについて考えることが増えた。

アウトプットと責任

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ただの事実として、言葉を発した本人が自覚していようがしていまいが、言葉は発された瞬間に自動的に責任が伴っていると言える。
つまり自分が何らかの意図を持って紡ぎ出した言葉があったとして、その意図と、言葉を受け取った相手が言葉を解釈して得た意図とは、全く別の事象であるということだ。 政治家が失言後に「誤解を招く表現だった。謝罪する」と言う事案の何割かは、これに該当するだろう。
自分が意図した言葉を、受け手全てに正確に伝えることが出来なかった時点で、政治家としての言語化能力に不足がある。もちろん、それにより発生した不利益は本人が甘んじて背負うべきだ。場合によっては単なるハンロンの剃刀事案と言える。

当然、言葉だけの世界の話ではない。文章、プログラム、振る舞い、仕草、三者から観測することのできる全ての事象は、他人に観測された瞬間に自動的に責任が発生している
本人はいい匂いだと思って付けている香水が、他の人からすると単に不快にしか感じないことに似ているだろう。
例えば、自分がコードをこの世に生み出して公開したとする。本人は最高のコードを生み出したと思っている、あるいは特に何も考えずに公開したのかもしれない。そこでたまたまGitHubリポジトリを見た転職希望先の責任者が、自分の知らないところで静かに失望していたりする。
自分が相手に対して実際にリスペクトを欠いているかは一切関係が無く、相手が「こいつの態度は自分に対してリスペクトを欠いている」と感じた時点で、コミュニケーションには齟齬が起き得るのだ。
手を当てないでクシャミをするだけで、もしかしたら上司に『こいつは他人に配慮することが出来ない人間だ』と評価されているのかもしれない。
内側に向けたピースサインは、文化によっては侮辱行為と受け取られるという。
改めて自覚すると、自動的に責任が伴っているにも関わらず、その事実にただ無自覚で居続けることは、本当に恐ろしいことだと思う。 上記を踏まえた上で、己が誰かに対し、心を配って言葉を使うか、何も考えずに乱雑な言葉を使うかの尺度は、当たり前のことだがすべて個人の自由であり、裁量の範疇に過ぎない。
繰り返すが、自分の口から出た言葉に対して、その影響を自覚しているかどうかは、言葉を受け取った相手が、自分に対してどのような印象を抱くかに対して何も影響はない。
己がTPOに応じて尺度を自ら調整しながら、日々のアウトプットを積み続け、その上で、不利益が起きたのであれば甘んじて背負わなければならない。

マネージャーとして、人としての自分のスタンス

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僕はマネージャーである。ラインマネージャーだ。中間管理職として、部下の継続的な成長と高い成果に責任を持ち、ラインに与えられたミッションを遂行する職務を担う。
日々の業務で最も重視することは、ありとあらゆるシチュエーションにおいて発生するコミュニケーションを、いかに最適に行うかだと考えている。

一連の出来事を経て僕は、コミュニケーションを最も重視する立場の人間として、あらゆるコミュニケーションの場において、可能な限り考え抜いて、誠意を尽くして、真摯な言葉を使いたいと思うようになった。
マネージャーとしてそうありたいということでもあり、人としてそうありたいと考えたという話だ。
しかしいざ実践すると、これがあまりにも難しい。
たとえ常々相手に対して誠実にあらねばならないと心に刻んでいたとしても、例えば多忙、ストレス、あるいはちょっとしたテンションの上下によって、ふとした瞬間瞬間に配慮を忘れ、相手に失礼と感じられても仕方がない振る舞いや発言を行なってしまったと自覚する。
つまり自分はこれまでの人生において、無自覚にそういった振る舞いや言動を行なっていたということになる。恐ろしいことだ。
今では毎日都度、静かに人間としての未熟を感じ、意識と言動・行動を修正し続けている。

そうして、覆水は盆に返らない

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常に誠意を尽くして真摯な言動や行動を取りたいということは、あくまでも僕が思っていることである。
誰かに対して「君も自覚して行動した方がいいよ」なんて大それたことを言うつもりは毛頭無い。当たり前のことだが、自分の生き方なんて各々の自由だ。
ただ、自分が何を言ったとしても、どんな行動を取ったとしても、何を残したとしても、誰かに観測された瞬間に、ただ自動的に責任が発生しているという事実は変わらない。ならば、せめて自覚していた方が、人生においては何かと都合が良いのかもしれない。
僕は冒頭の出来事に対して、自らの言動によって得た不利益を甘んじて背負わなくてはならないし、二度とこのようなコミュニケーションロスを起こさないように、可能な限り心を配って真摯に誠実に言葉を紡ぎたいと考えたのだ。この記事はただ、自分への戒めとして残したいと思い、エディタを開いた。

そうして、壊れた人間関係は二度と戻らないと知った。もう知っている。
致命的な破滅に気づくのは、起きてから、二度と戻れない事態になって、そこで初めてなのだ。
人に出来ることは、せめて同じことを繰り返さないように学習すること以外に無い。